『「貧乏だけどウヨな若者」とか「金持ちだけどサヨな老人」が誕生してきている気がする』の解釈
それを踏まえて
「貧乏だけどウヨな若者」とか「金持ちだけどサヨな老人」が誕生してきている気がする
を考えてみます。
まず単語を置き換えますが、「ウヨ」=保守、「サヨ」=革新(=自由主義)で問題ないと思います。世界的な、もしくは日本語の辞書的な意味としての右翼、左翼ではなく、あくまで日本の若者、老人の思想に対応する置き換えとしてです。
まず今の日本の現状ですが、かなり自由主義に偏っています。生まれてすぐに洗礼を浴びせられる「学歴社会」というのが、個人の過去や属性がほとんど考慮されない世界です。偏差値という数字は現実の問題そのものではなく、現実の問題を捨象した問題を解く能力か、現実の問題を解決する基になる潜在能力を相対的に測ったものです。
社会に出ても成果主義などの自由主義的な管理に晒されます。製造業の世界で特に浸透しているISO9001も、そのエッセンスである自然科学的管理はまさに自由主義的な管理手法です。ニュースで話題されることも多くなりましたが、現在の若者が人材派遣で仕事に従事する場合、ほぼ間違いなく自然科学的管理で管理された業務を行うことになります。そこでは標準化された手順に従い黙々と作業するだけで、当人がどのような人間であるかは考慮されません。標準化の成果として、並以上の目標でありながら標準的に達成できると設定された成果を達成できるのは当たり前になり、ほめられることもありません。
リストラ、という熟練者の解雇を意味する言葉も極当たり前に使われていますが、これは実はすごいことです。自然科学的管理の技術により、高効率である手順と品質保証の仕組みにより個人レベルの熟練の価値と、機械的なシステムに裏付けられたセキュリティの仕組みの事故防止と責任の所在の明確化により通常の個人レベルの忠誠心の価値が失われたということを意味します。これもまさに保守的な価値観の崩壊です。「一所懸命」などという言葉が美徳になることはなく、自らの判断により自己の能力に照らして最適な場所で最善の成果を上げることだけが求められています。
さて、そこで再び元記事の中で引用されている文から一部を抜き出してしてみます。
カネの無い若者は大人が築いてきた体制を批判するモノである。
カネの有る老人は自分の築いてきた体制を保守するモノである。
現代の日本は自由主義で「カネの有る老人」というのはその体制を築いた上で成功を収めた人間です。「カネの無い若者」というのはその体制の中で成功をおさめていない人間です。付け加えると自由主義に反発して保守主義的な主張をしている場合、幸福感もないはずです。
もう一度引用しますが、結論として
「貧乏だけどウヨな若者」とか「金持ちだけどサヨな老人」
というのはわたしからすると日本の社会の現状としては極自然だと思います。
蛇足気味になりますが、右翼というと国粋主義だとか危険思想だと思われがちですが、現代の若者の「右翼思想=保守主義」というのは*1自由主義的な管理体制の下で無視される自分の存在を認めてほしいという欲求を表明しているだけだと思います。社会的全体を俯瞰すれば必ず存在する標準以下の能力は全く評価されず、人格や忠誠心として評価されるはずの態度も価値を認められない社会においては、組織への貢献が評価され、あなたがあなたであるのが最善であるとされる*2保守主義を政治的に支持するというのは自然な流れだと思います。誰だって他人に何かしら認められたいという社会的欲求はあるはずです。